コミッタは自分で名乗り出てなるものではない

と思う。もちろん、自分自身で新しい何かを作った時は、自動的にそのプロダクトのコミッタに就任しても良い。しかし、他人のプロダクトに対して、 「コミッタにならせてください」 っていきなり名乗り出るのは、OSSの世界を知らないにも程がある。 OSSは、もちろんソースコードが公開されているために、そのメリットとして「誰でも修正コードを作って適用できる」ということがあげられる。しかし、それが即コミッタ就任につながると思っている人がいるようだが、それは大きな勘違い。つまり、公開されたコードの不具合や改善策を提供することは、「OSSの利用者に課せられた当然の行為」であり、本来であれば、そのOSSプロダクトを利用する人全員が行うべき(少なくともそれを認識しておくべき)ことである。 それが何故「コードに対する貢献をしたんだから、コミッタにしてくれ」なんて発想になるのか、僕には理解できない。 あとからコミッタになるということは、利用者から開発者に昇格する、という非常に珍しい話。そのためには、対象プロダクトに対して、大きな貢献がその人によってもたらされるべきだし、そういった活動が「既存のコミッタから認められて」初めて昇格に値する話である。つまり、自分から「コミッタにならせてください」というのではなく、「コミッタになってください」とお願いされなければ、きっとコミッタになったとしても何も貢献できないし、必ず幽霊になる。だって、認められていないということは、貢献してくれる、という裏付けがないってことなんだから。 逆の言い方をすれば、既存のコミッタは、安易に誰かをコミッタとして任命してはいけない、ということだと思う。そのプロダクトを育ててくれる貴重な人を見つけるためには、その人のやる気だけで決定するのではなく、ちゃんとした裏付けがあって初めてコミッタとして任命すべき。その判断を誤ると、プロダクトに負の貢献をされたり、幽霊になって名前だけ使われる、という結果を招くことになる。 大好きなプロダクトがあって、そのコミッタとして真剣に参加したいという気持ちがあるのであれば、自分から名乗り出なくても、それ相応の行動が既存コミッタの目につくはずだ。そうやって本当のコミッタが生み出されなければならない。そのためにも、すでにコミッタな人、これからコミッタになりたい人、その両方がOSSの文化を正しく理解した上で行動するべきではないか、と思っている。 今日ではOSSの企業への浸透および開発への参加も普通になってきた。今一度、OSSとはどういう世界で成り立っているのかを、IT業界全ての人間が理解しておく必要があるのではないだろうか。

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